彼と、初めて会った日を、私はまだ覚えている。

まだ私はまだ小学生の高学年に上がったばかりの年だった。ずっと幼い頃からお世話になっていて大好きだった近所のおばあちゃんが亡くなってしまったから、そのお家の小さな葬儀に私もありがとうとさようならを言う為に、母と一緒に言っていたのだ。

彼は、其処に居たのだ。

彼は、イトさんは、所謂「死神」らしい。あの日は、あのおばあちゃんの魂を導くためにやってきたらしかった。葬儀の合間、母と亡くなったおばあちゃんの家族が少し話をしているその間、黒いスーツを着ていた彼を見つけた。鮮やかなオレンジ色の髪が思えば非常に不釣り合いだったのに、私はあの時、綺麗だと、そう思った事も覚えている。

私はたぶん、彼に話しかけたと思う、彼と少し、話をした。ほんの僅か、短い間だったようにも思うし、それなりに長い時間話をしたようにも思えた。だけれど、その辺りの記憶はさすがにあやふやだ。

私は、彼との会話の最後に「また会える?」そう聞いた。

彼は答えた。「いいよ、また会おう」そう、言ったのを覚えている。

 

 

 

 

陽だまりに恋をする

 

 

 

 

本当は、「E-8」という名前らしい事もそれから後になって聞いた。同じ死神のナナさんがイトって呼んでいた。ナナさんの本名は「D-7」だからナナさん。私の兄の零里兄さんは警察で働いている。一応「刑事課だよ」なんて言ってはいたけどお仕事の話を詳しく聞いたことはないから、普段どうしているのかは正直よくは知らなかった。でも、家に帰ってくるときにはケーキやお菓子のお土産を何時も買ってきて、私たち下の兄妹を何時も可愛がってくれる。血は繋がっていないけど、恰好よくて自慢の兄だ。そんな兄がその職業のせいかどうかはわからないけど、兎にも角にも、ナナさんの方と知り合いで、おまけに結構な長い付き合いらしい。だからナナさんと腐れ縁(と、本人達は言っていたけども、私にはどう見ても親友に見える)のイトさんと零里兄さんが顔見知りであっても不思議ではない。

あの葬儀の間イトさんと会話をしたその時間よりも、後から葬儀にきた零里兄さんがその場を離れようとしていた私を見つけた時のあの瞬間の方がよっぽど私にとっては印象的な瞬間だったのだ。

『あっ、お兄ちゃん!』

『愛里、なんだここに居たのか。母さんが探してたぞ』

『・・・ゼロ?』

『え?』

彼が零里兄さんの愛称を呼んで私も振り返ったし、驚いた零里兄さんも顔を上げた。

『・・・イト、なんで・・・。あぁ、そうか仕事か』

『うん、まぁ』

『てことはナナもきてるのか?』

『一応ね。』

『ねぇ、お兄ちゃんのお友達なの?』

零里兄さんとイトさんの会話を遮ってそう聞いた事も覚えている。

『まぁ、そんなようなものかな』

『ゼロ、もしかして妹さん?』

『そ、可愛いだろ?』

『あぁ』

『・・・やらんからな?』

『なんでそうなるんだ』

彼は苦笑いを浮かべてそう言って、それでもどこか楽しそうだった。兄の声もどこかいつもと違って聞こえて、零里兄さんの私の知らない世界を少しだけ覗いたような、そんな気持ちになったのも覚えている。

それからだ、ナナさんやイトさんを零里兄さんが連れて来るようになったのは。その内に自由気ままなナナさんは零里兄さんがいなくても遊びに来るようになったし、イトさんはそんなナナさんを連れ戻しにもきていた。そもそも、死神だなんて私の常識からは逸脱した存在だったから、ナナさんのそんな行為も彼らにとってはそんなものなのかと勝手に納得さえしていたけれど。

時々訪れるようになった彼らと過ごす時間は少しだけ、特別だった。

弟の夕里と海里はまだその時小学生に上がったばかりだったし、一番下の妹の零奈はその時、まだ5つになるばかりの小さな女の子だった。だから2人が来ると下の兄弟たちはいつもいつも大喜びだった。ナナさんと一緒に大騒ぎをして、イトさんに甘やかしてもらう。零也お兄ちゃんは大抵いつも、学校の後は部活で、部活がない時は道場へ足を運んでいたので帰るのはいつも夜だったし、乃々里お姉ちゃんも同じで大学の後は大学の方で何かと忙しそうだった。だから、大抵下の兄妹達がナナさんと遊んでいる間、私とイトさんは居間でお茶を飲みながらお話をしたりして過ごしていた。

なんてことない、少しだけ特別な普通の時間。

ナナさんは零也お兄ちゃんが帰ってくると、普段は寡黙であまり喋らない零也お兄ちゃんに「黙れ、うるさい」と言わせるくらいには構い倒していたし、乃々里お姉ちゃんも2人がきている時は家の中が賑やかで楽しいと言っていた。たった少しの間。あっという間に彼ら二人は鵲家の中へとあっさりと介入したのだ。

最初の幾度か目までは、後から帰ってきた零里兄さんがナナさんに向かって、「来るなんて聞いてないぞ」と窘めていた。その返しにナナさんは飄々と「別にいいだろー」と返して、イトさんが謝っていた。当然勝手に出入りを繰り返すナナさんをどちらかというと止めに来ているイトさんの事を知っている零里兄さんは「お前じゃないって」と笑っていた。結局それが数度繰り返されるとついぞ零里兄さんは、「なんだ、来てたのか」と、随分最初と態度が変わってしまったものだった。元よりナナさんの事を知っていたからあっさりと諦めたのだろうけれども。

そうやって何度も彼と過ごす時間が増えて行くうちに、私はあっという間に恋に落ちた。

誰に?

 

そんなの、決まっている。

 

あの日から、あの人はずっと私の中で切り取られたみたいに鮮やかだった。きっといつか褪せていくだろうと思った色は、時間をかけて、徐々にその時よりももっと、強く。鮮やかに染め上げられていくのだ。

優しいほほえみも困ったように笑う顔も、温かで穏やかに紡がれる彼の言葉もその雰囲気も。全部、全部。

ずっとずっと、そのあり方と存在は、私たちにとってはまるで近所の優しいお兄さんで、彼も私達と接するときにはきっとそんな心持で接していたに違いないのだけど。

少しずつ、少しずつ、私の心は彼で埋め尽くされていくのを感じた。

何時も何時も、彼が帰る時、私は「次はいつ来るの?」そう尋ねた。彼はいつも笑ってごまかして、「また来るよ」とそう言った。

その「また」を、私は一人待ちわびて、彼はいつもその「また」を明確に告げてくれた事はなかった。

例えば私のお姉ちゃんは私とは正反対に、おしとやかでしっかりしていて、美人で可愛くて、優しく包むように笑う人だった。柔らかなふんわりとした髪はお姉ちゃんには本当によく似合っていて、大好きだったし、同時に羨ましくも思った。おまけに頭だっていい、美人で聡明な人って言うのはまさにお姉ちゃんの事だっていつも思っていた。

幼い頃から活発だった私は、中学に上がってからは陸上部に入って、高跳びを始めた。私は頭も別段いいわけじゃないし、お姉ちゃんみたいに可愛らしい女の子でもなかった。ただ、抜群に運動神経は良かったから運動部に入った。高跳びは旨く跳べるようになってくるとすぐに好きになった。バーを越えて跳んだ瞬間、視界に飛び込んでくる広い青空がただただ、美しかった。

彼の色とは正反対の色合いのそこに何故だか彼を思い出した。きっと届く事はないのだろう。

たぶん、そんなところが似ていたのだ。鮮やかなのに優しいのに、酷く遠いのだ。

中学生に上がって暫くしたころには私は、私の抱える彼への気持ちに気付いていた。

でも、誰にも告げる事は出来なかった。

だってそう、その頃には彼が、死神という者が(具体的に何をしてるかなんて知りはしなかったけれど)どういった存在で、絶望的に人間とはまるで違う存在である事を私は、ちゃんと、理解していたのだから。

例えば友達と恋愛の話になって、好きな人は誰と、そう問われても私は、頑なに、「内緒」そう答えるしかなかった。

言えるはずもなかった、死神の存在なんて知っている人の方が僅かだし、それを隠しても彼の事を言ってしまえば、「会わせて」「見せて」と言われるのはきっと必然だったから。彼の姿は、数年経つと言うのに、初めて会ったあの日から寸分の違いも私に見せてはくれなかった。

それが私を安心させて、それが私の心をざわめかせるのだ。

小学生だったあの頃、男の子みたいに、とまでは言わないけれど、短かった髪を伸ばし始めたのは間違いなく、彼のせいだ。

『愛里ちゃんは、髪、伸ばさないの?』

『どうして?』

『愛里ちゃんの髪、真っすぐで綺麗だから、今見たいなショートカットも可愛いけど、きっと伸ばしても似合うと思って』

たった、それだけの事。ほんの他愛のない会話の言葉一つ。

それが私を支配する。

きっと彼はそんな風に言った事もとうの昔に忘れているに違いなかった。でも私は覚えてる。いつか、言ってやろうと、密かに思っている。

随分、伸びたでしょ?似合う?

って、そう、言ってやろうって、ずっと思っている。そんな風に考えている間に、本当に随分な長さになったものだった。運動をするにはもう随分と不向きな長さの髪だった。切ってしまおうって何度も思ったけど、やっぱりその度にずっと前にイトさんが、彼がそう言ったあの言葉が耳に残って消えないから、邪魔だなんて思いながら短くなんてできなくなった。長く伸びた髪を今ではポニーテールにしていた。高い位置で結んでも、長く垂れた髪は背中でゆらりと揺れる。

中学生に上がって暫く、何時頃からだったろうか中学2年生にはもうなってしまった頃だったろうか、その頃からイトさんは少しずつ遠回しに私に牽制するようになった。明確な言葉でもなく、何もなくあの人のもつ雰囲気の全てがこれ以上は近付くなって、そう言っていた。きっと、私の想いに気付いたからだろう。本当は今程の長さに伸ばすつもりもなかったその髪はその頃肩口を超えて胸の辺りまでは伸びていた。それでも飽き足らずに今の今まで伸ばしたのは、あの時まだ彼が私を映してくれない事を知ったからだ。

彼は上手に私を視界に入れないように立ち回っていた。まるで雲を掴まされるようだった。

彼は私にそういう思いを抱かせた事自体を罪だとすら思っているに違いなかったし、私もそうやって彼が私を振り返ってくれなくなった事で、この想いは閉じ込めるべきだって、そう何度も何度も思い直した。

わかっていた。

彼は時おり、パタリと来なくなる。そうして時間が取れて思い出したように随分と時間を開けて会いに来る。長い時には1年。数か月来ないなんてザラで、そうすると育ち盛りの下の兄妹は随分変わって見えるらしく、何時も何時も彼は驚いていた。私に対しても同じだった。そうしてその内にその表情の中に寂しさを見つけたのだった。

最初はその理由なんて何も分からなかった。

でも、そう、彼が寂しいのと同じで、私も少し悲しかった。

前と変わらない彼を確認して、安心して、自分がどれだけ変わったかを思い返して、少しだけ切なくなった。

私には途方もないほどの時間を生きている彼は一体どれほどの時を経たらその姿に変化を及ぼすのだろう。最初のうちは、少しずつ彼との距離を埋めていける気がして、嬉しかったのだ。確かに。身長が伸びる。たったそれ一つ。年を重ねる。たったそれ一つ。

どうにかしてでも彼に近づきたかったそれらが丸ごと全て彼の憂欝なのだ。そんな事、思いもしなかった。

中学2年生の冬、私は、一度彼に告白をした。彼は私を子供扱いして、宥めてうやむやにされてしまったのだけれど。不完全燃焼の想いをそこで終わらせるなんて、私はできなかった。

そんな事があってもやっぱり、彼の笑顔は優しかったし、彼の言葉は変わらずに温かかった。それから幾度か、同じように告白を試みては見たけれど、結果は最初と変わりなかった。名前を呼べば振り返ってくれるのに。泣けば慰めてくれるのに、頑張れば頭を撫でて褒めてくれるのに、一緒に居れば、笑い合ってくれるのに。

手を伸ばして、触れることはできるのに、彼の心は私にはさっぱり見えないままだった。

側に居ればこんなに温かいのに、どうして私の心はいつまでたっても届かないんだろうって、幾度も幾度も考えてた。

私がまだ子供だからなの?彼と私が違いすぎるから?きっといつか違う人を好きになるって思ってる?

きっと、全部だ・・・。

彼と私の間の埋められない溝がもどかしくて、でももう、どうにもできなくて。私はとうとう口を噤んだ。そんな事をぐるぐるぐるぐる考えている間に、あしらわれている今の間ならまだ側に居られるけれど、そうやって、本当に私が本気で気持ちをぶつけてしまった時に、彼は一体どうするんだろうって思いいたった。何故だろう、それを境にきっと彼はもう二度と私の前には現れなくなる気がしたのだ。

そう思ったら、酷く怖くなった。

私は私の想いをお姉ちゃんにだけは打ち明けていたけれど、私はその内にお姉ちゃんにも何も言わなくなってしまった。いつか、お姉ちゃんが、「きっと愛里が思うより、とても大変な恋なのよ」って、そう言っていたのを思い出した。

本当だね。

想いを告げた瞬間、驚いた後嬉しそうな表情とその間で、悲しそうな、切なそうな表情を彼がしていたような気がして、そんな事に気付いていて私は見えないふりをしていた。その理由も何もかも知っていて、やっぱり私は見えないふりと気付かいふりをした。

彼は私の知らない長い長い時間の中で、人の生の刹那さを嫌というほどに知っていたに違いなかったし、彼の立場からして、ずっと私の側に居てくれる事も出来なかったし、年齢うんぬんやなにやかんやは、種族が違う事からして、常識を逸脱していたので、きっと彼が考えていたのはそんな事じゃなかった事くらい、とうの昔に気付いていた。だから、告白したのだ。

でも、年齢じゃなくて、その気になる別の事がよほど、そうとても、彼にとっては重要で、だからこそ、どんな事があっても私を受け入れるまいと心に誓っていたに違いなかった。

 

それでもやっぱり私は諦められなくて、そうこうしている間に高校生に上がった。私の髪はもう、腰の辺りまでも長くなっていた。あまりにも長くなりすぎた髪ではやっぱり運動をするには不向きで、でもやっぱり切れなくて、だから私は髪を切ることよりも、陸上を止める事の方を選んでしまった。いつ来るかわからない彼をまって、僅かしかないその時間の為に私は部活動をする事もしなかった。学校が終われば、彼を待つ為に家に急いで帰った。時々は友達と遊びに出掛けたりもしたけれど、ほとんどはそうやって彼を待つ為に放課後は真っすぐに家に帰った。そうやって時折彼が現れたら、その隣で話をするのだ。そっと手を伸ばして、彼の手を捕まえてみたりするのだ。

少し、低い体温に、私の体温が奪われていくのがわかる。大きな手、ひんやりとした体温。

触れることはできるのに、どうしてこんなに遠いんだろう。

もうずっと、ずっと、好きなのに、貴方が居る季節だけを、私の心は覚えている。

秋の終わり、冬が来るころ、一緒に街を散歩した事があった。街路樹はもうはらはらと葉を落とす季節になっていて、はらりと落ち葉が落ちるのを見送って、歩いていけば道の上はすっかり落ち葉の絨毯が出来上がっていた事も覚えている。あぁ、綺麗だなって。

見上げたもうすぐ冬のやってくる秋の空は遠く淡く鮮やかで、秋色の景色の中でも、彼の色は鮮やかに染まっているのに。雪の積もった冬に兄妹達とみんな揃って雪合戦して遊んだ事だって、春の盛りはもう終わって、すっかり桜も花を落として新芽を芽吹かせた頃、温かな日差しの中で、一緒に居たのは、やっぱり彼だったんだって。そうやって、季節が巡るのを彼と居た景色で覚えて行くのだ。

高校の入学式のとき、おめでとうって言ってくれた彼の優しい笑顔が嬉しかった。あれから数度会ったけれど、最後に会った時に「出来たら次は学校の近くで待ってて」って、そう言った。そうしたら、一緒に帰れて、少しだけ、一緒に居る時間が増えるのにって、そう思ったんだ。

もう、衣替えも済んで暫く、半袖のセーラー服を着ていても、熱くて暑くて仕方がなくなってきた頃、学校を出て少し歩いて角を曲がったところ、見覚えのある人影を見つけて足が、止まった。

私を見て、そっと微笑んでくれる。あぁ、ただでさえ熱くて火照るのに。

「イトさん」

きっと最初から間違えていたんだなぁって、きっと彼はそう思っているんだろうって。本当はやっぱり、死神と出会うなんてそんな事の方が間違っているし、私の未来に彼は居ないはずだったんだろうな。もちろん、彼にとっても。もし、彼にとっての未来で私が存在する事があるとすれば、それはきっと、彼が死神として私の魂を奪う時だけだったはずだ。

でもだから、だからこそ、私はそんな間違った出会いも含めて、運命なんだって思ってしまうんだ。この想いの全てがあの人を困らせてる。でもだって、出会ってしまったから、惹かれてしまったから。

こんな恋、間違っているんだ。

こんな想いは封じなくちゃいけないんだ。

そうわかってるのに。そう思ってるのに。

「来てくれたんだね」

「そう言ったのは愛里だろ」

「うん、嬉しい!」

彼がそう思っていたから、そう気付いたのに。でも、やっぱり私は彼が好きで。

せめて、こんな穏やかな時間が続けばいいのにって。

ずっとずっと、彼の隣で、こうやって。

「イトさん、寄り道しよう?」

「いいよ」

「手、繋いでいい?」

「熱くない?」

「へーき、イトさんの手大きーい」

「そりゃ、愛里よりはね」

あぁ、ひんやりとした掌が、大きくて。

滲む体温が、温かくて。

全部全部、もう、伝わってくるのに。怖い。きっと次に言葉にしたら、もう二度と会えない。そんな気だってするのに。

この瞬間がたまらなく幸せなのに、たまらなく苦しい。

始まらなければ終わりも来ない

そうやって、言い聞かせてきたのに、何度も何度も、考えてみたのに。

 

 

想いが 全部 溢れそうだよ

 

 

言葉にしたらダメなんだって、わかっているのに。立ち止まった私に気付いて彼は振り返った。もういっぱいいっぱいだった私の心はとっくに容量オーバーで、瞳からぼろぼろぼろと涙が零れてくるのを止める事が出来なかった。

「どうしたの」って聞く彼に「何でもない」って答えた。

「どっか、痛い?・・・愛里?」

あぁ、だめだって、わかって、るのに。

「胸が、苦しい」

でも、 もう 無理だよ。

だって、だって、イトさん、こんなに胸がいっぱいなのに

 

「好き、 なのっ」

 

そう、嗚咽と一緒に漏らして、あぁ、とうとう言ってしまったなぁって思ったりもしたんだ。「愛里」頭上で響くいつもは優しい色の声が酷く哀しみを帯びていた気がして、やっぱり後悔をするのだった。あぁ、困らせてしまったなぁって。きっとまた、寂しそうな、哀しそうな、苦しそうな、切なさを押し込めた表情をしているのに違いないってそう、思った。

私を慰めようと伸ばされた腕が、戸惑って途中でひっこめられたのにも、気がついた。だから、私は急いで涙を拭って笑って見せた。

あぁ、だって、こんな事でもし本当に二度と彼と会えなくなるのはそれが、それが一番私にとって哀しい事だったのだ。

「ご、ごめんね、もう、もう言わないからっ!」

顔をあげて見た彼の表情は思っていたものと違っていた。切なく困ったような表情で微笑んでいるって思った。そうやって、あっという間に私の前から姿を消してしまうんだろうって。

でも、違った。

見た事もない位、難しい表情をしていた。それこそ、ナナさんの事でよく眉間にしわを寄せてはいたけれど、それとは違う。

「愛里」

彼は、嘗てないほど静かに、優しく、ゆっくりと私の名前を呼んだ。

「俺はきっと、滅多にこっちに来れないし、きっと愛里を幸せになんてできない。寂しい想いもさせると思う。生きる世界も、年齢も、時間も、何もかもが全然違うから、きっと苦しい思いばかりさせてしまうよ」

「な、なかった事でいいの。気にしないで。何もいらないから、今までと同じでいいの、たまに出いいから会いたいの。それだけでいいよ。それだけでいいの。他には何にもいらないから」

きっとだからもう来ないよって言うんだって思った。

「だから、だから、もう来ないなんて、言わないで・・・・!」

「ねぇ、俺は、愛里よりあんまりにもたくさんの時間を生き過ぎてとても、とても、臆病になったんだよ。どうしても愛里に触れたら行けない気がして、今もそう思っていて。だから、このたった一歩の距離も詰められないんだ」

もう二度と会えなかったらどうしようって思っていたのに、この人の言葉は少しばかり私には難解で、それでも何かを伝えようとしている事だけはわかって、どうしよう、切ないよ。

「ねぇ、・・・・愛里」

そうやって、少しだけ手を広げて、聞いた事もない位優しくて温かくて甘やかで、柔らかな声で、私を呼ぶから、私はもうほとんど条件反射のように彼の腕に飛び込んだのだった。私の我儘な恋はずっとずっと彼を困らせ続けてきたに違いないのに、結局彼は私を甘受してしまうのだ。

「わかりずらいいいいいいいいいい」

「ごめんね」

そうやって言った後、彼は私を抱きしめる腕の力を強くした。ずっと遠い遠いって思っていた彼の体温がすぐそこにある。ジワリと滲んでいく。きっと私の我儘な恋に振り回されながら彼もきっとずっと我慢してたんだなあって、ようやく少しだけわかったりなんかもした。隣に並んだ時に感じた柔らかな気持ちも切なさも幸せも全部やっぱり繋がってたんだって、そう思った。

「普通の恋人見たいにはなれないし、愛里の未来をきっと奪ってしまうんだよ」

「そんなの今更だし、そこにイトさんがいるなら何でもいいよ」

「きっと、後悔するよ」

「絶対しないもん」

「・・・俺はこの瞬間から後悔しているよ」

「もうきっと俺からは離してあげられないから」

顔をイトさんの胸に押しつけていたから、その時イトさんがどんな表情をしていたのかなんて私からは見えなかった。

どんな未来だって本当によかった。其処にイトさんがいるなら、それだけで、よかった。

イトさんと出会って、ゆうに6年程の月日がたった時だ。小学生だった私は高校生になっていた。ショートカットの髪はもう、腰の辺りまで伸びてきていた。長いポニーテールがゆらりと揺れる。イトさんはやっぱり、あの日から何も変わっていなかった。

私はまだ、少しだけ縮まる距離が嬉しかっただけだった。

きっといつかイトさんを追いこしてしまう日が来る事だって、私はもうわかっていたのだけれど、そんな日が来るのはまだまだずっと先の事だと思っていて、私はこの時はまだ、イトさんの側に入れる事、イトさんとの距離が縮まる事が嬉しかっただけだった。

やっぱりこの時友人たちの誰ひとりにも私は、何も言えていなくて。帰って乃々里お姉ちゃんにそっと報告を果たした。

乃々里お姉ちゃんは少しだけ複雑そうな表情をして、だけれどもずっと側で見てきてくれていたから、何も言わなくても察してはくれていたのだろう、そっと私を抱きしめて、「よかったね」といって祝福をしてくれた。言葉にする事を止めてからもう随分の月日がたっていた。どこにも吐き出せない想いを蓄積し続けていた事を乃々里お姉ちゃんはずっと知っていたのだ。同時に何かを言いたそうではあったけれども、「何時でも相談に乗るからね」と、そう言ってくれるだけに留まった。

私には何を言おうとしていたのか、わからなかったけれど、きっとイトさんと同じような心配をしているのだろうなという事だけは気がついた。

さてもって、問題は兄だ。兄とは言って零也お兄ちゃんじゃなくて、零里お兄ちゃんの方だ。私も大概お兄ちゃん子である自覚はあるけれど、お兄ちゃんの方も相当だと思う。あぁ、きっと驚くんだろうなと、零里お兄ちゃんを思い出す。思えば、イトさんとこうやって幾度も繰り返し会える様な状況になったのは、零里お兄ちゃんがイトさんと知り合いだったからだと思うと、少しおかしな気分だった。

「兄さんはきっと、なんだかんだ許してくれるわよ」

そういってお姉ちゃんは柔らかく微笑んだ。

「そうだね」

私もそうやっていって笑い返した。

あぁ、幸せだなぁ。

心の底から暖められているみたいに、今の時間は穏やかで温かで幸せだった。

 

 

 

 

 

 

 

陽だまりに恋をした。

 

 

 

 

 

 

 

20120702

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