あれから、何が大変だったって、零里兄さん達に報告をする事だった。
本当は、暫く内緒にしておきたいなぁって思っていたんだけれども、イトさんが、馬鹿正直にも「ちゃんと言っておきたい」ってそう、言うから。改めて、イトさんが次に来たときには報告しようと、二人で決めた。イトさんの方はとっくに覚悟も決めていたようだけども、私の方はもう、全然だ。一体何て言ったらいいかわからなかったし、反対されたらどうしたらいいかわからない。
いざ、その時が来て兄妹達に告げたところ、零也兄さんの反応は、まぁ、予想通りといえば予想通りで特に可もなく不可もない感じに。「そう、おめでとう」なんて、あっさり言われたり、下の兄妹達はむしろ嬉しそうだったし、母だってイトさんなら何も心配ないと言わんばかりであった。これがナナさんだったらきっと真逆の反応だったろうけども。
当の零里兄さんは、驚いて固まってしまっていた。と、いうより、どう見ても魂が抜けかかった表情だった。そんな、零里兄さんの膝を乃々里お姉ちゃんが控えめにパシリと叩くと、ハッとしたように顔を上げたが、すぐに蒼くなって下を向いて何事かぶつぶつ呟いていた。何を言っているのかは聞こえなかったけれど。恐らく多分、やっぱり反対だって、言うんだろうなぁ。私たちよりも、イトさんやナナさんと付き合いが長いのは知っている。だからこそ、色々思うところがあるのかもしれない。あぁ、どうしようそう思っていたら、零里兄さんが不意に顔をあげた。
「・・・イト、やらないって、言っただろ」
「覚えてるよ」
「―なら」
「ゼロ、ごめんでも、好きなんだ」
ハッとした。
あの日も、遠回しにでも精一杯に伝えてくれたけど、今こうやってあらためて言葉にしてくれている事が素直に嬉しかった。零里兄さんは難しい顔をしたあと、すこし寂しそうに笑って「仕方ないな」といった。
「イト、とりあえず後で殴らせろ」
直後そう言い放った零里兄さんは、イトさんに気持ちいい位の笑顔を向けていた。
陽だまりと恋をする
そうやって、やっと一歩踏み出して進み始めた私たちの恋は、同年代の他の子達の恋愛に比べてみたら酷く緩やかだった。それを不満に思った事はなかったし、それでよかったと思っているのだけど、イトさんは多分、それを引け目にも思っていたに違いなかった。付き合い始めてから、イトさんは少し、少しだけ、こっちの世界に足を運ぶ回数を増やしてくれるようになった。本当は忙しくてこちらへ来るのは大変なんだって、そんなこと知っていたけど、私はイトさんと一緒に居たかったから、「無理しないで」って言葉は閉じ込めて、何も知らないふりをした。
会いに来てくれる度に、すこし柔らかく笑って低い声で私を呼んで、この手をとる大きなその手が好きだった。だけれど、幾ら触れても彼の温度が少しも伝わって来てはくれなくて、私は触れる度にいつも泣きそうだった。私は触れると、触れていると思っていたけれど、本当は、その手はいつも触れる事が出来ないから、彼と私の”手を繋ぐごっこ”で互いに触れるふりをする。見えるのに触れないなんてそんなのずるい。
彼は此処に居るのだけれど、でも此処に居ないのだ。いつもいつも、イトさんが来るのを待ちわびるだけの私も時折、貴方の元へと駆け出したくなったりする事が何度も何度もあったのだけれど、それは全部イトさんには内緒の話。
だって私にまっているだけなんて本当イトさんじゃなかったらそんなの有り得ない。じっとなんてしているの、イトさんを相手にだけだ。
例えば、親しい友人たちに、恋人がいる事は暫く立った頃にやっぱり見抜かれてしまったのだけれど、どうにもこうにも紹介なんて出来るはずもなかったから、少し困ってしまった。友人たちの質問攻めに困ってしまった私は、当たり障りなく、嘘をついた。年上っていうのは、本当だけれど、働いてもいるけれど、それはこの世界ではなくてイトさんの世界の話だけれど、社会人で、って事にした。職業はって聞かれたけれど、当然「死神」なんだよなんて、言えるはずもなかったから、「仕事の話はあまり聞いた事がないの」ってそう答えた。
「えーやだー、社会人って何歳?」
「え、えっと・・・27・・・くらい?」
「やっだ、一回りも違うの?ロリコン?」
「ち、違うよっ!」
「えーいいじゃない、社会人。お金持ってんでしょー」
「やぁだ、千恵美はお金持ってたらいいわけ?」
「えー、そう言う訳じゃないけど、安心して奢ってもらえるのは+でしょ。」
「ははは・・・、まぁ、だから、彼忙しいし、たまに会えた時は、ほら、うん。」
「あーはいはい、邪魔するなって?わかったわよ」
「え、えへへ・・・ごめん・・・。」
「じゃぁ、その内写真撮って来てよ。良いでしょ?」
「どうだろ、彼がいいっていったらね」
そんな曖昧な言葉で約束して、試しに後日一緒に写真を撮ってみたら、面白い位私の右隣に立っていたはずの彼の姿は全くと言っていいほど写真には写らなかった。だから、また、彼女たちにはごまかして、「ごめんね、写真苦手みたい」と、そう言った。そうやって、一枚、彼の写らない私だけの写真をどうしたかって言えば、私は彼と二人初めて撮った写真を後生大事に、新しく買ったアルバムの1ページ目に貼りつけた。
きっと数年後少しずつ写真を増やしていっても、どんなに増やしても、何時か見返した時、私しか写っていない、不自然に隣の開いたその写真を見て少し哀しくなったりするのかな、ってそんな事を思ったりもしたのだけれど、それでも彼と過ごした時間を残しておきたいと思ったのだ。
「ごめん・・・愛里。写真はやっぱり無理みたいだ」
「ねぇ、イトさん。また撮ろうね。一緒に」
「でも、愛里」
「だめかな。それでも今イトさんと一緒に居る事は変わらない事実だもの。写らなくてもいいの、確かにそこに、此処に居る事、一緒に残しておきたいの。イトさんのその一瞬の表情を残しておけるものならそうしたいけど、せめてこの一瞬私と居たんだってことを、ね」
「・・・うん」
イトさんは少し切なげな表情ですこしだけ笑って私の我儘に答えてくれた。幾ら触れる事もでき無い彼が写真に写る事が出来るなんてそんな期待は、正直あまりしていなかったけれど、やっぱり泡のように消えてしまった。写真に写らない事も、まるで空気が彼を象っているみたいな、触れている感覚だけの言葉にできない温度も、私と彼が別の世界の人間なんだって克明に告げていて、ただただ苦しくなるだけだった。
それでも私はイトさんの事が好きで、一緒に居たくて、触れて居たくて、苦しくても、側に居て欲しかった。そうして、側に居たと言うその時間を確かな形で、少しでも残して置けたらいいのになんて、そうやって、少しでも彼を此処に繋ぎ止めようとしていた。
そうやって、時がたっていった。
時折イトさんがきてくれる。こっちの世界に居てくれる僅かな時間を、少しだけ、一緒に過ごす。また彼を待つ。
その、繰り返しを続けてきた。
そうやって続けている間に、高校生だった私は、大学生になっていた。大学生になって暫く経って、イトさんが遊びに来た時にいつもなら、絶対に「久しぶり、ごめんね」ってそう言って私が「お帰りなさい」って、そう言って笑うのに、今回に限って彼は呆けた顔をしていった。
「・・・服」
ぽつり彼が呟いたのはそれだけだった。最初は今日は変なのなんて、そんな事思っただけだったけど、すぐに合点が行った。私服で会う事なんて今までそれこそ数えるほどしかなかったし、イトさんが迎えに来る時は大抵学校の帰り道で、制服だった。
「あぁ、そっか。うん、大学生になったからね。制服は卒業しちゃったの」
「・・・あぁ、そうか。なんかセーラー服のイメージが強くて、びっくりしたよ」
「それよりイトさん!」
「え、あ、ごめんね。ただいま」
「うん、お帰りなさい」
本当は、イトさんが私の知らない世界に帰る時がただいまで、こっちに来る時はお邪魔します何だって知ってる。わかってる。だけど、彼が来た時に「いらっしゃい」って迎えて、帰るときには「またね」なんてそんなの寂しくて言えるはずもなかった。だから、気がついたら、お出迎えは「お帰りなさい」帰る時には「早く帰って来てね」そんな言葉で送り出すのだ。これも小さな私の我儘の一つだ。こんな言葉でくらいしか、私は、イトさんとの「次」を約束できないから。
いつだったか、私はイトさんに言った事があった。
「あんまり放っておいたら、誰かに攫われちゃうんだから」
でも、言ってすぐに後悔した。彼はまだ、彼自身が我慢すればいいって考えていたから。
「愛里がそうしたいなら、何時でも身を引くよ」
そんな風に言って欲しい訳なんかじゃなかった。「それは困ったな」とか、「待っていて欲しい」とかイトさんらしい控えめな、でも私を繋ぎとめておきたい、そんな言葉を期待していたのに。当然ながら私はその後泣きながらイトさんに怒った。
そうして、大学でも友達を作って、レポートやら遊びやら毎日忙しく過ごして、大学3に上がっての秋に一度イトさんがきて、またいつもどおりに「早く帰って来てね」とそう言って「いってらっしゃい」といって、送り出してから、パタリと彼は来なくなった。
3か月が過ぎて、少し、寂しくなって。でもこれくらい来れないときもあったと言い聞かせて、半年が過ぎて不安になって、きっと今までにない位忙しいのかもしれないなんてそう考えて。9か月を過ぎて、何も思えずただ、待った。大学4年生の時、最後にあった季節が廻って来た時、「こんなに長く会わない事ってあったかな・・・」って、そう考えた。1年を過ぎて、私は就職先も決まっていて、後残るは、卒業論文を仕上げ、発表会に備えなければならないという、卒業年次の追い込みの最中で、少しだけ、冷静に考えた。
そもそも、きっと今までこんなに頻繁に会いに来てくれる事の方が大変だったのかもしれない。もう、私は気付いてる。私は彼と会ってから、背が伸びた。顔つきも大人びてきた。毎年一つずつ年を重ねて、彼の外見年齢に着実に近づいていってる。彼と生死の話は余りした事がなかった。と、いうより避けてきた。彼の職業が死神だってことを考えたら、そんなの当たり前だ。誰よりも生死を見てきたのはきっと彼だ。それなのに、彼自身の生について聞くなんて、私には出来なかった。でもそう、きっと彼は私なんかより途方もないほど長い時を過ごすんだろう。寿命があるのか、ないのか。あの外見のまま一体あと何十年彼は過ごすんだろう。それくらいはとっくに、気付いていた。だからきっと、私達が思う3か月は彼にとってはあっという間で、私達の思う何十年も彼にとってはたった少しなんだろうなって。
本当は滅多に来れないって言っていたから、もしかしたら、3か月やそこらは「滅多な」時間だったのかもしれない。1年に一回だってもしかしたら、彼らにとっては多かったのかも、なんて、そんな風に考えた。それが真実かどうかは私にはわからない。きっと聞いてもごまかされるだろうし、聞いてみるつもりは、なかった。
私はイトさんの居ない冬を間近にして、ず―っと、長く伸ばしていた髪を「あぁ、切っちゃおうかなぁ」なんて事も思った。
この長い髪が好きだって言ってたなぁ。だから伸ばしてたんだけど。でも最初はガサツな私でも髪を伸ばしたら少しは女の子に見てもらえるかなぁって、そんな風に思っただけだったんだよ。それだけ。ショートカットになんてもう随分してないけど、気分転換にもなるかもなんて、そう思って私は、思い立ったが吉日、そう言わんばかりにあっさりあれほど長かった髪を30cm以上切り落としてさっぱりとショートカットにした。うん。気持ちがいい。名残惜しくはあったけれど、髪はまた伸ばせばいい。
とは、思ったけれど、さっぱり切ってしまったら、これが中々気に入ってしまって、大学を卒業して、新社会人になっても、定期的に美容院に行っては切りそろえてもらって、ショートカットを維持していた。あぁ、あっという間イトさんの居ない2年目が来るなぁなんて呑気に構えていた。そうやって、のらりくらり1人自由に過ごしながらひらすらにイトさんを待っていたら、いつの間にか、「彼氏はいない」事にされていたらしく、在る時を境に急に合コンへのお誘いが増えた。何度か断り切れずに足を向けたけれど、やっぱり私はイトさんがよかった。
なんだか行くたびに、「あぁ、違うなぁ。」「イトさんじゃないとやっぱりやだなぁ」ってそんなことばかりを再確認して、やっぱりすぐにイトさんを待つ生活に戻ってしまう。そんな繰り返しだった。
「まだかなぁ、まだかなぁ」そんな風にただただ、イトさんの来る日を待つ日々は、苦痛だったかというと特別そんなことはなかったけれど、やっぱり時々無性にイトさんに会いたくなって寂しくなったりした。何時か撮った、不自然に隣の開いた(其処にはイトさんが居たはずの)写真を眺めたりなんかして、「早く早く」って呟いてみたりして、ただ彼を待っていた。
私は正直に気の長い方なんかじゃないし、「ただの」「普通の」遠距離恋愛だったら、きっととっくに有休でも何でも使って飛行機にでも新幹線にでも飛び乗って彼に会いに行っていたに違いなかったのだけれど、残念ながら私と彼の住む世界はそもそも違っていて、其処へは私がどんな方法を使えば行けるのかすらわからないそんな場所。気が短かろうと会いたくて駆け出したくても、彼が私を見つけられるように私は此処に居るしかないのだ。待っていることしかできないのだ。
「早く来てくれないと、どっか行っちゃうんだから」
そんな事を1人、社会人になって1人暮らしを始めた狭い部屋の中で壁に向かって呟いてみた。当然返事なんて来るはずもなかった。
そうして、そんな事呟いたって、彼を待ってしまうのだからもうどうしようもないなぁ、なんて独り言ちる。
さっぱり音沙汰の無いまま、それからさらに数年、これはもうこんなちっぽけな人間に構うのも馬鹿馬鹿しくなって捨てられたのかなぁなんて、涙も忘れてそう思い始めた頃。それでもやっぱりそれでもいいかなぁなんて思いながらやっぱり彼を待っていて。
「ねぇ、イトさんの年齢に追い付いちゃうよ」
私はもうすぐ、27になろうとしていた。
彼を待つ事がもう、すっかり日常になっていて、そろそろまた髪を伸ばしたいなぁと思いながらも、もう一年以上再会した時の彼の驚く声が見たくてまだ、私は髪を短くしたままだった。そんな事を思ったら、髪を切った時の零里兄さんのショックに倒れるんじゃないかというくらいに青ざめた表情を思い出して、思い出し笑いをしてしまった。今も、零里兄さんも乃々里姉さんも、零也兄さんも、弟の海里と夕里に妹の零奈も、父さんも母さんも皆、みーんな、イトさんを待つだけの生活を送る私を心配してくれてた。まだまだ、小さいと思っていた弟も妹もすっかり大きくなってしまって、あぁ、私も年食ったなぁなんて思った。
「このまま1人でおばあちゃんになっちゃったらどうしてくれるの、イトさんのせいだよ」
居もしないイトさんに話しかけるのもこれで何度目だろう。数えきれないなぁ。って。
あぁ、こんな不毛な恋愛もうやめちゃえばいいのに、私だって何度もそう思ってみたけど、でもやっぱり駄目なんだなぁ。
ある日の会社の帰り、私のアパートの前、「今日も疲れたなぁ」って思いながら歩いていたら、遠目に目立つオレンジの髪が見えて、「あっ」って、私は声を漏らした。ほとんどそれは確信だったけど(だってオレンジ色の髪なんて、そうそう居てたまるものか!)私はやっぱり少し信じられなくて、先程より歩調を緩めながら自問自答を繰り返していた。
もう暗くなりかけてる空を背に、ゆっくりと私を振り返る彼を見たとき、待っていた時間の色々とか、こんな風に突然帰ってくるなんてとか文句言いたいとかなんだかもう、色々思っていた事全部全部吹っ飛んでしまった。
だってずっと、待っていたんだもの。
イトさんだ、ってそう認識したから、駆けだしたかったのに、一発頬くらい叩いて、それから思い切り抱きしめたかったのに。私の足はすっかり其処に固着して動かなくなってしまって、待っている間に録に流しもしなかった涙が、一気に押し寄せて、せっかくイトさんをこの目が捕えたのにもうぼやけて見えない。
もう、こんな、洪水だ。
溢れて止まらない涙を止める気もなければ留めるすべもなくて、流したままにぼんやりとした風景に居た彼が少しずつ近づいてくるのだけはわかった。あぁ、きっと困ってるんだろうな。
「ごめんね」
久しぶりに耳に響く声。あぁ、知ってる。知ってる。
この人の、声。
大好きな、声。
でも、不満、不満だよ。私は一層眉を寄せて声を出した。
「なんで、なんで、ごめんなのよおおおおっ!」
声に出したら尚更一層涙が出てきてもうどうしようもない。
彼はまた、それに「ご、ごめんっ」って、焦って行って、私が、「だから・・・」って続けようとしたのを遮って
「ただいま、愛里」
涙がぼろぼろで止まらないまま彼にしがみついた。(あぁ、触れられる。何時も触れないのに)なんてどこかで小さく思って
何時ぶりくらいなのかなぁ、冷たい彼の体温も愛おしくて抱きしめて、(スーツしわになっちゃうな。あぁ、でも、しらない!)そう思った。
だって、こんなに長い間放っておいたこの人が悪いんだから!そんな風に全部全部今は彼のせいにした。そうして
「もっ、ばかあああああああああ」
って、近所迷惑なんてそんなの考えないで声を張り上げた。
「うん、ごめんね」
って優しい声が上から降って来て、優しく優しく抱きしめ返してくれた。
あぁ、あぁ、これが欲しかったの。
もっと、色々言いたいことあったのに、何もかももうどうでもいい事だったような気がして全部に蓋して、今は唯彼を抱きしめた。
それから、零里兄さん達のところにイトさんは怒られに(殴られにとも言う)いった。弟達はいきり立ってたけど、乃々里姉さんと、零里兄さん、零也兄さんは違ってた。なんだかもう、全部しょうがないってとっくの昔に許す事を決めてたみたいで、代わりに。
「愛里の事任せるから」
零里兄さんがそれだけぽつりとイトさんに言った。
乃々里姉さんは私に、「帰って来てくれて、よかったね」といってくれた。零也兄さんは相変わらずの無口で、こくりと零里兄さんの言葉に同意を示すように、頷いてそれきりで。
あぁ、もう、私がどうしようもない位にイトさんじゃなきゃだめな事、皆知ってるんだなぁって、ぼんやり思った。
そう思ったら、家族の優しさに又なんだか涙がこみ上げそうになった。
世界で一番私の家族が一番素敵なんだって今なら声を大にして言える気がした。
イトさんも、零里兄さんの短い言葉は十分に理解したみたいで、言葉が出ないって顔してた。
別に、結婚の申し込みに来たわけじゃないのにね。結婚なんて、出来ないしね。そんな事をぼんやり考えながら、笑ってみた。
そうしたら何だかそんな考えも筒抜けだったみたいだった。
その帰りに、高くも安くもないけど、ペアリングをイトさんが買おうって、そう言ってくれて一緒に買いに行った。ペアリングなんて一生持つことないんだろうなぁって思ってたのにな。嬉しい誤算ってやつだ。
それから驚くべく事に、イトさんは一度も向こうの世界に帰らなかった。時々、イトさんの友人のナナさんがイトさんに会いに来て、それくらいだ。私は帰らなくて大丈夫なのかと幾度か尋ねたけど、「いいんだ」って彼は返した。どうやら、彼は暫くはこっちに居られるように計らったようだった。それがいつまでなのか、私は何も知らないけれど。彼が企んだ小さな決意を私は気付かないふりをした。だって一緒に居られるのなら、その方がよかったから。
もしかして、何もかも放り投げて此処に留まっているなんてそんなの、気付いても気付かないふりをするしかなかった。
彼の見た目の年齢に追い付いて数年は「恋人」で居られたのに、その内、「少し年の離れた姉弟」みたいになった。
「もう暫く経ったら、今度は親子って言われちゃうのかなぁ」
イトさんの方が随分長く生きてるのに。小さく笑ってそう言ったら、彼は少し複雑そうな表情を向けて「そうだね」っていった。
そうやって、年を少しずつ重ねていけば、やっぱり私は彼の隣に居る事が憚られるように思えた。もう、恋愛の対象に移るような若くてきれいな年頃の女の子なんかじゃないのに、それでも隣に居てくれるのは同情だろうか、それともまだ、愛情で居てくれるだろうか。
すこし、尋ねるのが怖くて、いつだか、彼が私に言っていたような事と、同じ事を言うようになった。
「イトさん、もう私年取っていくだけだし、何時捨てたっていいんだよ」
イトさんはその度に複雑そうな表情を浮かべて、「そんな事言うなよ」って、そう呟いた。
あぁ、私、その気持ち知ってる。何時もそう思ってたんだよ、ねぇ、イトさん。
でも、今、あの頃イトさんがこういう風に言ってた気持ちもわかるよ。
なんだか、おかしくなって少し笑いながら「ごめんね」って言ったら、イトさんも「ごめんね」っていって、二人で笑った。
あぁ、もうこんなの、どうしようもないなぁ。
それから母子に思われるくらい年を重ねたくらいに私は仕事を止めて、アパートも引き払って、田舎へと越した。何も言わずに東京を離れた物だから、零里兄さん達には大変な心配も掛けてしまった。田舎に落ち着いて、一息、イトさんと一緒に田舎暮らしを始めましたってハガキを送ったら、その葉書を見て早々、けたたましく電話が鳴って出たら案の定「一言くらい言って行け!」と怒られた。「ごめんね、なんとなく、そうしたかったの」そう返したら、盛大な溜息を着かれたけれど、なんだかそれも温かくて私は笑ってしまった。
そうやって、田舎暮らしは穏やかでゆったりとした時間が流れていった。あっという間に私とイトさんは「おばあちゃんと孫」くらいになってしまって、田舎のご近所さんにはすっかり「いいお孫さんを持ちましたね」なんて言われるくらいになってしまった。
とっくに気付いていたけどもう、恋人なんて甘やかな関係には見てもらえない事が少しだけ残念で、でも、それもなんだか、秘密の関係みたいで少し楽しくて、私はいつも「ふふ、そうでしょう」って返していた。
だんだん、年を数えるのも億劫になってくる頃には、小さな持病をいくつか持つようになって、少し面倒な体になった。それでも小さな畑を耕して、イトさんと私の2人が暮らすには問題ない位で、ってそんな事を思って数年すれば、いよいよ体を動かすのも面倒になった。
あぁ、いよいよだなぁって。
布団に寝たきりになった私の隣に付き添うイトさんはもうずっと泣きそうに落ち込んだ表情しか見せてくれなくて私は少しさびしかった。
「もう面倒くさいでしょう」
そう尋ねたら、彼は必至で首を横に振って否定して、「どんな形でもいいから此処に居てくれよ」ってそういった。なんだか少し嬉しくなって、ずっとずっと聞きたかった事を聞いてみたのだった。
「どうして、私だったの」
こんなに、見た目が私の方が年上に見えても、彼の方がずっとずっと長生きで、こんなおばあちゃんでもきっとあなたにとっては小娘と変わりないのだろうなぁなんて考えたら少しだけおかしくて、やっぱり私は彼に微笑みを向けたままだった。彼は泣きそうなままの表情を崩さないまま、「どうしてだろうね、もう忘れた」ってそう呟いて、まだ続けた。
「でも、君の綺麗な魂が好きだ。透明で、柔らかくて、優しくて、温かい。君の魂は誰より、綺麗だよ。ずっと。ずっと。もう何度も、その魂を丸ごと食べてしまいたいなって思うくらいに」
「そうしてくれてもよかったのに」
そうやって、今まで知る事の無かった欲に触れたら、私は一層そうして欲しくなった。けれど彼はそれにはまた首を横に振って否定した。私の手を取って、しわだらけになった皮膚を愛おしそうに撫でながら続けた。
「でも、食べてしまったら、もうこんな時間ももうそれきりだろう。一瞬で終わる欲は叶わなくていいよ。一瞬でも壱秒でも長く愛里と一緒に居る時間の方がよほど、俺が欲しいものだから」
そうやって言葉にしてくれる事は今まで余りなくて、「あぁ、やっぱり私もう少しなんだな」って再確認して、余り我儘を言わないイトさんには珍しい私にとっては甘やかな言葉も、「もう終わりで、今だから」何だろうなぁって考えたら、嬉しいのと寂しいのと哀しいのともっと一緒に痛いなぁっていろんな気持ちがこみ上げて、微笑みながらも目じりから零れる涙を抑えられなくなった。
「私が死んだら、私の魂、イトさんが食べてくれる?」
って、何時だか聞いた事があった、彼は酷く哀しそうな顔をしていた。そんな日が来ない事を祈っていたに違いなかった。彼はいやだとは言わなかった。私も言って欲しくはなかった。消えてなくなるのなら、彼の中がよかった。今も、そう聞いてみたかった。でもなんだかとても酷な質問だと思ったから、きっとあの日の問いを彼は覚えていると思って、その問いには蓋をした。
いよいよ瞼が重くなって、きっとこのまま目を閉じたら、もう弐度と会えないんだろうなぁって、そう思った。
薄く開いた眼の端に移るオレンジは、ずっとずっと私にとって温かな場所で、絶対唯一な陽だまりだった。
ついぞ暗闇に落ちる瞬間まで握られたその冷えた手に私はやっぱり、小さく早鐘を打っていて、その体温が愛おしくて、大好きで、温かで。
あぁ、私、こんな瞬間までずっとずっとイトさんに恋してるんだよ。
なんだかそれってとっても幸せだったなぁなんて、思った。
ごめんね、私、イトさん置いて行っちゃうんだね。
私の魂、貴方にあげるよ、好きにしてね。
これから、生きる貴方の人生に私はもういらないから、忘れてね。
ううん、やっぱり覚えていて欲しいなぁ。
時々でいいから、幸せだったなって、思い出してね。
お願いだから、笑っていて欲しいな。辛いって思わないで欲しいなぁ。
あぁ、これ、伝えたかったのにな、もう、言えない。
声もう、でないな。
ねぇ、イトさん。大好きだよ。
愛してるよ。
私の人生にイトさんが隣に居て幸せだったよ。
ありがとう
陽だまりの様な恋でした。
2012.10.13